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福岡地方裁判所小倉支部 昭和50年(ワ)664号 判決

原告

崔昌華

被告

日本放送協会

右代表者会長

坂本朝一

右訴訟代理人弁護士

杉山幸孝

外二名

主文

一  原告が被告に対し、原告を除く韓国人、朝鮮人の氏名を今後朝鮮語音読みにより呼称することを求める訴は、これを却下する。

二  原告その余の請求は、いずれもこれを棄却する。

三  訴訟費用は原告の負担とする。

事実《省略》

理由

一本案前の主張について

1  原告を除くその余の韓国人、朝鮮人の氏名の将来の呼称に関する訴の当事者適格

原告は本訴において被告に対し、原告のみならず原告を除くその余の韓国人・朝鮮人の氏名を今後朝鮮語音読みにて呼ぶよう求めており、その主張するところによれば、その請求権の根拠を人格権においていることが明らかであるが、原告が自己を除くその余の韓国人・朝鮮人の人格権につき管理処分の機能を有するものでないことはいうまでもないから、原告は自己を除くその余の韓国人・朝鮮人の氏名の呼称に関する訴について当事者適格を欠くものといわざるを得ず、従つて右訴は不適法として却下を免れない。

2  原告の氏名の将来の呼称に関する訴の利益

原告の氏名の将来の呼称に関する訴はいわゆる将来の給付の訴というべきところ、被告は将来原告の氏名を呼ぶ放送を行うことがあるかどうかは現在のところ全く不明であるから、予め給付判決を得ておく必要があるとは認められず、従つて原告の右訴は訴の利益を欠くものである旨の主張をなすが、右主張じたい、被告において将来原告の氏名を呼ぶ放送を行う可能性を全く否定する趣旨でないことが明らかであるのみならず、被告が将来原告の氏名を呼ぶ放送を行うことがあるか否かは、原告が右請求の根拠として主張するところの人格権の侵害可能性の有無という実体判断と密接不可分に関連する事柄であつて、将来の給付の訴の要件とされる予め請求をなす必要性の有無とは一応関わりあいがないものというべきところ、〈証拠〉によれば被告は韓国人・朝鮮人の氏名の呼称については現段階では原則としては日本語音読みによるとの態度を維持していることが認められるとともに、現実の放送をまたなければその呼称に関する給付の訴を提起し得ないものとすれば、到底訴の実効性を期し難いことをも勘案すれば、原告には予め前記訴をなす必要があるものといわざるを得ないから、この点に関する被告の主張は理由がない。

二本案の請求について

1  〈証拠〉によると、原告は韓国に国籍を有する在日韓国人であることが認められるところ、原告の氏名が「崔昌華」と表記されること、昭和五〇年八月二六日原告が北九州市庁記者クラブにおける「北九州市長に提出する在日韓国人・朝鮮人の人権に関する公開質問書」についての記者会見において、被告の放送記者折方秀行を含む新聞記者らに若干の資料を配布したこと、同年九月一日原告が北九州市に公開質問書を提出した際、応待した北九州市の大野浩公報室長から「サイさん」と呼ばれたのに対し、「私はサイではありません。チオエ・チヤン・ホアです。」と答えたこと、被告の記者である折方が取材のためその席上に臨んでおり、原告と大野公報室長との右やりとりを聞いていたこと、しかして被告は同月一日と二日の放送で原告の氏名を「サイ・シヨウ・カ」と呼んだことは当事者間に争いがない。

そして〈証拠〉によれば、被告の記者である折方は前記八月二六日の記者会見の席上、「CH崔OE CH昌ANG W華HA」と記載された原告の名刺及び配布された資料から原告の氏名は韓国語で「チオエ・チヤン・ホア」と発音するものであることを知り、取材結果を被告の北九州放送局に報告するにあたり、原告の氏名の韓国語音による呼び方についても触れたことを認めることができる。

以上の事実によれば、被告は原告の氏名が韓国語音によれば「チオエ・チヤン・ホア」と発音するものであることを知りながら、その放送にあたつてはあえてこれを日本語音読みにより「サイ・シヨウ・カ」と呼んだものといわざるを得ない。

2  ところで氏名は、社会的にはある人を他から識別する、あるいは特定するという機能を持つという意味で制度的な側面を有すると同時に、当該個人の面からみれば、その人格と密接不可分に結びつきこれを表象するという実体をも有している点で、単なる符号とは異りいわば人格の象徴とでもいうべき一面を有する。氏名の有する右の如き属性からすれば、氏名は表記上も表音上も一個であるといわざるをえないのであつて、これを表音についていえば、人は社会生活上自己の氏名を正しい呼び方に従い正確に呼称されねばならず、又これを正確に呼称される利益を有するというべきである。ただしかし、右利益の性質はこれが侵害された全ての場合において、一律に法的な保護が図られるべき利益とは直ちに断じ難い性質のものであつて、氏名を正確に呼称される利益それ自体はいまだ一般的にいつて法律上の程度に熟さない事実上のものと認めるのが相当である。けだし人の氏名の呼称は表記された文字の表音によるものであるが、わが国のように表意文字たる漢字を文字として使用する場合には、表記された文字の表音は常に唯一無二ではなく、そのため現実の社会生活においては誤つて呼称されることもままあることであり、故意に呼称を違える場合でさえ、むしろ親愛の情をあらわすとすらいえる場面も多々存するのであつて、一般的にいつて氏名を正確に呼称しないことそのことのみによつては、法的に評価し得べき何らかの人格的利益を害したとは直ちにいい難いからである。然し乍ら氏名の有する前記の如き人格的側面に鑑みれば、氏名の呼称を違えた目的ないし意図、その態様等諸般の具体的事情如何によつては、氏名の呼称を通じ、氏名によつて表象される人格を無視、軽視、揶揄、誹謗、蔑視あるいは侮辱等することにより単に事実上の利益を侵すに止まらず、法律上保護さるべき人格的利益を侵す違法な状態を招来することも十分考えられるところであり、かような場合においては、氏名を違えて呼称された者は、これを呼称した者に対し、違法な侵害行為たる当該呼称行為の差止を求め得るとともに、人格に対する違法な侵害によつて蒙つた精神的苦痛に対する損害賠償を求め得るものというべきである(なお念の為付言すれば、原告は被告が原告の氏名を誤つて呼称したことの違法なる所以を、氏名権なる概念のもとに縷々強調するが、原告が氏名権なる概念のもとに主張するところの法理は、氏名を他人によつて利用されたとか、氏名の利用を妨げられたとかの場合に妥当する法理であつて、直ちに本件の如き氏名の呼称に関する場合に適用し得るものではない)。

そして以上述べたことは、呼称者と被呼称者の人権、信条、性別、身分等とはもとより、その国籍とも全く無関係に妥当することは多言を要しないところであつて、日本人による外国人の氏名の呼称(あるいはその逆)の場合にもそのまま妥当するものということができる。ただ外国人の場合には、わが国と文字及び言語体系を異にするので、相互に相手の氏名を呼称するにあたり、その正確な呼称を常に要求することは、日本人同士の場合以上に多くの複雑困難な問題が存する点が特に留意されねばならない。

3  そこで右見地から被告が原告の氏名を日本語音読みにしたことが、原告の人格を侵害する違法な行為にあたるか否かにつき、更に検討を加える。

原告が韓国に国籍を有する在日韓国人であり、被告が原告の韓国語音による氏名の呼び方を知りながら、あえて日本語音読みによつて呼称したことは前示のとおりであり、原告が韓国人であることからすれば、原告の氏名は「チオエ・チヤン・ホア」と韓国語音で呼ばれなければならず、被告が故意にこれを違えて呼称したことは、そのこと自体からすれば、苟も好ましいとはいえない。しかも前記認定の事実によれば、被告は原告のいささか偏執的ではあるがその氏名の呼称に関する要望の事実を知りながらあえてこれを無視して日本語音読みをしたと認め得るのであつて、かかる事情を前提とする限りにおいては、原告が被告の右行為により自己の誇りを傷つけられたという侮辱感を抱いたであろうことは容易にこれを推知することができる。加うるに歴史上明らかな事実として認められるところの、過去における日本国による韓国の併合及び隷属化の施策並びにこれに伴ういわゆる創氏改名の施行等一連の不幸な歴史的背景をも考慮に容れれば、原告が被告から自己の氏名を日本語音読みにされたことによつて、韓国人・朝鮮人としての民族の誇りを傷つけられたとする心情も又理解し得ないものではない。

然し乍ら、氏名の呼称を違えたことが法律上人の人格を侵害する違法な行為と評価しうるか否かについては、前記のとおりその目的、意図、態様等諸般の具体的事情を総合的に勘案し、現代の我国社会における一般通常人の立場から客観的に判断することを要するというべきところ、当裁判所は被告の所為を目して違法と認めるのは相当でないとの結論に達したが、その理由は左のとおりである。

第一に、現代の我国社会において中国、韓国及び北朝鮮の地人名については原則として漢字表記、日本語音読みの確立した慣習があり、被告の所為は右慣習に従つたということである。即ち、〈証拠〉を総合すると、日本、韓国、北朝鮮及び中国はいわゆる漢字を文字として使用する、もしくはつい最近まで使用していた漢字文化圏に属すること、漢字はもともと中国で発生し、それが朝鮮あるいは日本に伝来したものであるが、その音はこれを採り入れたそれぞれの国の言語の音韻体系に合致するように変形されたため、それぞれの国で独自の漢字音が発達したこと、その結果我国においては、奈良時代以降、それぞれの原音で表音することが定着した例外的な場合を除き、漢語を我国特有の「訓読」によつて発音する便法が次第に定着し、しかもその「訓読」は極めて多種多様な変化を伴つて定着したため、過去における長い日本文化史の中において、訓読される漢語は既にして外来語を意識させないまでに深く日本語に溶けこむに至り、表記された漢字の日本語音読みは広く一般化し、現代の我国においては確立された社会的、民族的習慣として存在することが認められる。

原告は悪しき慣習は改められるべきであるし、我国の韓国に対する過去の植民地政策の歴史に照せば特に然りである旨主張する。

然し乍ら我国国民一般が持つ漢字の日本語音読みの右慣習は、前記のとおり、それ自体、韓国人、朝鮮人及び中国人に対する蔑視等とは全く無関係に成立形成された歴史を有するものであつて、国際的、民族的に悪しき慣習として指弾さるべき筋合、性質のものでないばかりでなく、抑々、言語の問題は正誤善悪、感情、主義、思想、人権、民族等の問題である以前に、先ず我国の社会的習慣の問題であること少しく言い方を換えれば、外来語はもちろん、外国の地人名であつても、それを日本語の中で使うときは、それは日本語であることを銘記すべきであり、このことは過去の日韓の歴史を考慮してもなお変りがないといわなければならない。

確かに中国、韓国及び北朝鮮の地人名の表記表音方法については、大別してカナ表記現地音読みのいわゆる原音主義と漢字表記日本語音読みのいわゆる慣用主義が、長短それぞれの特色を有しながら対立して存在することはまぎれもない事実であり、また右の慣用主義についても、言語の慣習が時代の変遷と共に複雑に変容することは避けられず、その変容の形態は、誤よりも正へ、悪より善へ、更には少しでも前向きに、原音主義とできるだけ妥協する方向で変容することが望ましく、またその社会的努力も重ねられるべきことは当然であるが、さればといつて主義、思想、感情等に走つて慣習を無視することは言語の本質を誤り、之を混乱させるだけに終るものであるといわなければならない。

現に〈証拠〉から明らかなとおり、今次世界大戦における我国の敗戦に伴う民族意識の変革と新教育体制下における漢字制限の趨勢を主たる原動力として、昭和二三年秋、被告協会及び新聞二社(読売、共同通信)が中国の地人名につき、カナ表記中国語音読みを意欲的に試行したが、結局は慣習に反したものであつたところから永続きせず失敗し、昭和二八年再び漢字表記、日本語音読みの慣用主義に復帰せざるをえなかつた経緯の存することがその証左である。

しかして〈証拠〉に徴すれば、現在主に被告協会内部においてなお現行の慣用主義に盲従することなく、原音主義ないしそれに近い表音方式を種々志向する努力が重ねられていること及び右努力にも拘らず、我国と韓国、北朝鮮の言語の音韻構造上の差異、韓国と北朝鮮間の発音方式の相違、連音連濁現象等により、原音主義ないしそれに近い表音方式を実施する前提となるべき表記、表音方法の統一について複雑困難な問題が山積している故もあつて、未だ慣用主義に代るべき程度に熟した表音方法の統一試案の完成をみない状況にあることが窺えるところからすれば、現時点において被告が慣用主義に従つて原告名を日本語音読みした所為に違法性は認めがたく、この点の原告の主張は所詮採用の限りでない(なお同じ漢字文化圏に属する中国と日本の間においては成立に争いのない甲第六号証によれば互いに自国流で相手国の人名を呼ぶという慣行が形成されており、いわば読み方の相互主義が認められる事実は注目に値する)。

被告の所為を違法と目しがたい第二の理由は、新聞と異り表音を主体とする放送というマスメデイアの特殊性に由来する。即ち、被告の所為の態様をみるに、〈証拠〉によれば、被告が原告の氏名を日本語音読みにしたのはそのテレビ放送のニユース番組においてであることが認められるのであるが、表音を不可欠の意思伝達手段とする放送は、必ずしも表音を不可欠の意思伝達手段としない新聞雑誌等(現に各種新聞、雑誌等においては、中国、韓国、北朝鮮の人名を掲載するに当り、時として漢字名の下にカツコ書きにて片カナによる表音方法を明らかにしているかと思えば、時として漢字名のみを記載してその表音及びそれに伴う記憶、識別は慣習に従つた読者の日本語音読みにまかせ(尤も読者は多く日本語音読み以外を知らない)ており、取扱が区々として一定していないことは公知の事実である)と異り、不特定多数の、しかもその殆どが日本人である一般聴取者の理解し易い表音方法を採用すべき放送の性質上前記慣習に副つて、中国人、韓国人、北朝鮮人を問わずその漢字氏名を日本語音読みせざるをえない現状にあるというべきである。けだし、日本語音読みの前記慣習の存在及び各種民間放送、新聞雑誌等マスコミ全体の連繋が不充分な現実(前記のとおり、現代の新聞、雑誌等においてはカナ表記による運用が統一されてないし、民間放送においても日本語音読みの慣習に従つた放送をしていることもまた公知の事実である)を無視して被告独り現地音読みを実施することは、一般聴取者の理解し易い意思伝達手段を求められる放送のあるべき姿に反するからである。

しかして右第一、第二の理由として説示したところから明らかなとおり、被告が国民一般の慣習に従い韓国人である原告の氏名を日本語音読みで放送した所為は、現代における創氏改名の強要と評価すべき性質のものでないのみならず、客観的にみて、韓国人である原告の人格を蔑視するなどこれを侵害したと評価すべきもの、即ち違法性を帯びるに至るべきものとは到底認めがたく、他に本件全証拠によるも被告の右所為を違法と認むべき証拠は存しない。

4  以上のとおり、被告のした原告氏名の日本語音読みによる呼称行為が違法であるとはいえないので、その違法を前提とする原告の本訴請求(但し、原告を除くその余の韓国人、朝鮮人の氏名の将来の呼称に関する請求を除く。)はいずれもその余の点につき判断するまでもなく失当である。

三結論

よつて、原告の本訴請求中原告を除くその余の韓国人、朝鮮人の氏名の将来の呼称に関する部分は不適法としてこれを却下し、その余の請求はいずれも理由がないものとしてこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(鍋山健 園田秀樹 谷敏行)

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